結婚十二年目の秋は、穏やかな凪のように訪れた。
私たち夫婦の関係に、特段の不満があるわけではない。朝はコーヒーを淹れ、夜は互いの一日を簡単に報告し合う。予測可能な会話、予測可能な寝室。すべてが滑らかで、すべてが安全で、すべてが——退屈なほど完璧だった。
その夜、大学時代の友人夫婦を自宅に招いた。久しぶりの再会に、夫が奮発したという赤ワインを開ける。グラスに注がれた深紅の液体が、照明を受けて妖艶に揺れた。
「あの頃は若かったよね」
友人の妻、亜希子が笑う。隣で夫の隆が静かに微笑んでいる。彼は学生時代のやんちゃな雰囲気から、どこか憂いを帯びた大人の男へと変貌していた。ワイシャツの袖を肘まで捲った腕が、テーブルの上で無造作に組まれている。
ワインが進むにつれ、会話は途切れがちになった。沈黙が、部屋の空気を少しずつ濃密にしていく。
「お皿、下げるね」
私が立ち上がると、隆も「手伝います」と席を立った。狭いキッチンに、二人きり。シンクの前で皿を受け取ろうとした瞬間、私たちの指先が触れた。ほんの一瞬。だが、その接触は予想以上に生々しく、私の手のひらに電流のような感覚を走らせた。
「あ、すみません」
隆が小さく笑う。その声が、驚くほど近い。振り返ると、彼の顔が30センチほどの距離にあった。狭いキッチンでは、それ以上離れることができない。彼の吐息がかかるほどの距離で、私たちは動けなくなった。
そして——視線が絡み合った。
二秒。世界が粘度を持った。彼の瞳の奥に、私と同じ戸惑いと、それを上回る好奇心が宿っているのが見えた。言葉にならない何かが、私たちの間の30センチを行き来する。隆の喉仏が、ゆっくりと上下した。
「……ワイン、美味しいですね」
彼がようやく口を開く。その言葉が、どうしようもなく空疎に響いた。
リビングに戻ると、亜希子と私の夫が何やら談笑している。だが、その笑い声が遠くから聞こえてくるようだった。私は自分の席に戻り、グラスを持つ。指先が、まだ微かに震えている。
ふと隆を見ると、彼もまたグラスを握り締めたまま、動かない。彼の視線が、再び私を捉えた。今度は一秒にも満たない。だが、先ほどよりも明確な意味を帯びていた——「あなたも、感じましたか」と。
沈黙が重くのしかかる。亜希子の声も、夫の声も、BGMのように遠い。私と隆だけが、別の時間軸にいるような感覚。グラスの結露が指を濡らし、ワインの香りが鼻腔を満たす。私は隆から目を逸らせない。彼もまた、私を見つめ続けている。
「そろそろ帰ろうか」
亜希子の声が、張り詰めた糸を断ち切った。
玄関で別れ際、隆が手を差し出した。握手。ごく普通の、社交的な仕草。だが、その手のひらの熱が、私の掌に焼き付くほど強烈だった。彼の親指が、私の手の甲をほんの一瞬だけ撫でた——気のせいかもしれない、だが確かに感じた。
車中は、息が詰まるほど静かだった。
夫がハンドルを握り、私は助手席で窓の外を見つめる。だが視界には何も映らない。隆の顔、隆の指先、隆の吐息ばかりが脳裏に蘇る。
夫が、何かを言いかけて口を閉じた。その気配を、私は感じ取った。彼は何を言おうとしたのか。キッチンでの、あの長すぎる沈黙に気づいていたのか。
問えない。問うことで、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
自宅に戻り、鍵を開ける。見慣れた玄関が、今夜は別の家のように感じられた。
寝室に入る。夫がドアを閉める音が、今夜はいつもより重く響いた。服を脱ぐ音、引き出しを開ける音、すべてがスローモーションで、すべてが意味ありげに聞こえる。
沈黙。
夫が、私の背後に立った。その気配だけで、彼が何も言わずにいることの重さを理解する。私も、何も言わない。言葉にした瞬間、この危うい均衡が崩れてしまう。
だが、沈黙のまま——夫の手が、私の肩に触れた。
いつもと同じ、優しく確かな手つき。だがその手のひらに、今夜は別の温度が宿っていた。私もまた、夫の首筋に手を回しながら、そこに30センチの距離で見つめ合った誰かの輪郭を重ねてしまう。
背徳感という名のスパイスが、十二年の凪を静かに、しかし確実に揺らし始めていた。
そして私たちは、その揺らぎを——拒まなかった。言葉なき共犯者として。
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